ローベルト・シューマン
2007年09月10日 (月) | 編集 |

ピアニストを志すも、本格的にレッスンを始めたのは20歳と出遅れたシューマン。


そんなシューマンが生涯をかけて恋したのが、女流ピアニストのクララ。


演奏家をあきらめ、作曲家として歩むシューマンにとって、「ぼくの曲を、ぼくの愛する人が弾いてくれる」、それは素敵なことだったろう。


でも、シューマンの生真面目な性格は、ふたりの仲に影となって現れる。


当時のシューマンは、売れない作曲家。


対してクララは、人気ピアニスト。


彼女の演奏旅行に同伴した際には、「ご主人も音楽関係の方ですか?」と言われる始末。


生真面目なシューマンには、つらい現実だったろう。


それに当時は、大交響曲をものにしてこそ一流と信じられた時代(クララの考えも例外ではなかった)。


小品を中心とするシューマンは、自分の技量に対するコンプレックスもあった。


最期は、精神のバランスを崩し、自殺未遂のすえ病院でひとり静かに息をひきとる。46歳だった。


クララの愛を信じきれずに、でも心は彼女への変わらぬ愛を抱いて。


 


【ローベルト・シューマン】1810.6.8~1856.7.29


ピアニストを志すも、本格的にレッスンを始めたのが遅く、無理な練習で指を痛め断念。
その後は作曲に専念し、「トロイメライ」などのピアノ曲や、歌曲などロマン派的な音楽を多く残す。
私生活では、人気女流ピアニスト、クララ・ヴィークと結婚。8人の子供をもうけるも、精神を病み46歳で他界。


~月刊Piano 2006年9月号より~


 

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エリック・サティ
2007年09月07日 (金) | 編集 |

エリック・サティという人物、人々からsすれば一言で言ってしまえば、「ヘンなおじさん」だったろう。


「犬のためのぶよぶよした前奏曲」など、ヘンテコな題名の曲をいくつも残している。
思いつき!?いや、ひらめきに従って。


しかし、彼は仕掛けていたのだ、音楽とは何か?という自分の問いを。


モーツァルト誕生から約100年後の世界に生まれたサティ。
伝統的なものに対するクエスチョンからだろう。
彼は、ある自作曲の演奏会用プログラムに、「歩きながら、飲んだり話したりしてください」と、書き込んだ。


そして開演。
みな静かに聴いている。
サティは怒った、「なぜ黙って聴いているんだ!」と。
だって、それが音楽会というものだから・・・。


そして彼は、そんな自分のことを十分にわかってもいた。
こんな出会いの話がある。

ある日、ラヴェルの父が息子を弟子にしてほしいと訪ねてきた。
その当時、新しい傾向の音楽に興味を持ち始めていた息子のラヴェルを、「この子は現代音楽に関心をもっているのです」と言って。


サティは頭をかきながら、「私も現代派と言われるのですが、それはしかし、ほめる意味で言われているのではありません」と、苦笑したという。



【エリック・サティ】1866.5.17~1925.7.1


フランスで生まれ、継母にピアノの手ほどきを受け、パリ音楽院に入学。
個性的な作品のほかに、詩や文章も多く残し、詩人のコクトー、画家のピカソなど、多くの芸術家と交流するが家族もなく、ほとんど無名の音楽家としてこの世を去る。


代表作は、「3つのジムノペディ」「ジュ・トゥ・ヴ」など。


~月刊Piano 2006年9月号より~

ベートーヴェン
2007年07月13日 (金) | 編集 |

ベートーヴェンが作曲した「ヴァイオリンソナタ第5番『春』」の幸福感に満ちた、のびやかで優美な旋律に彩られた曲想は、「不滅の恋人」候補344の一人、ジュリエッタ・グイッチャルディへの恋が芽生えた頃当時の心情をうつし出しているのだそうです411


ベートーヴェンが作曲した「交響曲第3番『英雄』」の楽譜の表紙には最初「ボナパルト」の文字が書かれ、フランス革命の英雄ナポレオンに捧げられるはずだったようです230


・・・・が、権力をかさにきたナポレオンに失望し404 「『ひとりの英雄』のために」と書きかえられたそうです409


 


 

短調のモーツァルト
2007年07月12日 (木) | 編集 |

モーツァルト(1756~1791)の曲って、知らない曲でも「あ!これ、モーツァルトじゃない!?って、わかるような曲が多くないですか405
1000曲とも言われるその膨大な作品のほとんどが明るい長調の作品です341


モーツァルトに限らず、ベートーヴェン(1770~1827)より前の時代の音楽は、長調の明るい作品が主流でした。


そのあとの時代の作曲家、例えばショパン(1810~1849)は、長調と短調の曲をほぼ半分くらいに作曲しています。


モーツァルトよりも、同じ時代のハイドン(1732~1809)の方が短調の曲を多く作っていますが、それでも全作品の20%もないそうです399


モーツァルトの場合、この少ない短調の曲がどれも超有名237
交響曲第25番、第40番、ピアノ協奏曲第20番をはじめとして、音楽史に燦然と輝く名曲ばかりです341


モーツァルトの時代の音楽家の生活は、王侯貴族がパトロンとなって支えていました。だから、モーツァルトは当然のように貴族好みの明るい長調の作品をたくさん残しているようです342


それじゃぁ、短調の曲は何のためにかいたのでしょう・・・356


例えば、ピアノソナタ第8番、ヴァイオリンソナタ第28番は、母を亡くした青年の悲しみを表現しているとよく言われています。でも、そのあとに書かれた人生の悲しみとも言えるような、胸を打つ音楽がどのように生まれたのか、その謎を解いた人は、まだいないそうです409


本当のモーツァルトの姿が短調の曲の中に見えるような気がほんのちょっとしてきます410


明るくて社交的なモーツァルトも彼の一面だけど、内面は繊細で、努力家で、小心者409
短調の曲の中に、彼はその内面性をさらけ出しているみたいです。


女性的な優しい長調の曲に対して、短調の曲は力強く男性的な感じがしますよね392


 


 

ショパンとリスト
2007年07月11日 (水) | 編集 |

この2人、どういう関係にあったと思いますか?
ライバル?
それとも同志?


彼らの弟子によれば、「2人は強い友情という絆で結ばれていた」のだとか。


その「伝説の友情」は、ショパンがパリで最初の演奏会を開いた時から始まり、それ以来リストはショパンを高く評価して、ショパンの作品をコンサートで度々取り上げて、ショパンの名を広めることに一役買ったそうです。後にリストは、ショパンの伝記も出版しているんだそうですよ♪


また、ショパンがプリモ、リストがセコンドを受け持って、連弾を楽しんだりもしていたそうです。


ところが、2人の交際は10年ほど続いた後、プッツリと途絶えてしまいます。


その原因には、ショパンのアパートの鍵を預かっていたリストが、ショパンの留守中に、その部屋をピアニストの愛人とのデートに使って、ショパンをカンカンに怒らせてしまったというウワサがあります。


実際2人は、あらゆる点で正反対でした。


繊細なタッチを好んだ「ピアノの詩人」ショパン VS 『ピアノが血を流し、うめき声をあげる』(byハイネ)ほど、ダイナミックな演奏をした「ピアノの魔術師」リスト


生涯で30回ひどの演奏会しか開かなかったショパン VS コンサート活動を精力的に行なったリスト


地味で上品なオシャレを楽しんだショパン VS 派手好きのリスト 等など・・・


ショパンはリストについて、「才能のかけらもない、器用な職人だ」という記述をしているそうです。


もしかしたら、友情はリストの一方的なものだったのヵモ・・・(涙)
寂しいですね・・・409